どれくらいレッスンが必要ですか?

2013.04.19お知らせ
 

たとえば、運転免許のコースでも、二輪免許をお持ちでバイクを乗り回している方と機械音痴、自転車も乗れない方では習得のスピードが違うと聞きます。

目的やレッスン頻度、取り組み方、これまでの経験など個人差が大きいです。レッスンの進捗も最初はなかなかすすまなかったのが、ある時急に何かを会得することもあれば、最初いいスタートを切ったのに、次のステップに行くのに苦労する方もいらっしゃいます。車の免許を取るのにかかった時間は違っても、その後いいドライバーであるかどうかはそれとは関係ないのに似ています。 

 また、最初はたとえば右手でメロディが弾ければいい、と思ってピアノをはじめた方が、楽しくなってどんどん上達していくように、気づきが深まり、自分で課題を次々に見つけて深めていきたいと考える方もいらっしゃいます。行き先もやって行くうちに変わるかもしれません。私はご自身が決めた行き先に到着するよう、お手伝いをします。

 

Q.個人差があるということ、自分の目的によることはわかりました。それでも、どのくらいか教えてほしいです。

 

何回とか、何ヶ月とか、どうしても何かはっきりした数字がほしい、ということですね。

以下の数字は参考になるでしょうか。

 

 ブリティッシュ メディカル ジャーナル 掲載 慢性的な腰痛に対する長期的効果 調査例   半年から1年間で24回の1対1のレッスンを一つの単位とし、開始後3ヶ月で大幅な痛みの軽減が報告されています。

 

 

 STAT公認の教師養成コースに入学希望する場合、最低30回以上の1対1のレッスンを1年以上続けていることが望ましい。(STATの学校のガイドライン)

つまり、自分にとって役に立つものと思うだけでなく、自分が指導者として人に教える立場になる決心をするためにはそれぐらいの時間をかけて下さい、という意味です。

 

私自身は、「数字にどれだけの意味があるだろうか?」ということを自問します。

かつて私は外国語を教える教師だったので、例えば3ヶ月のあるコースを受講したら、「日常生活で最低限の自分のいいたいことはいえるが、相手のいうことはおおよそ推察できる程度」とか、そのカリキュラムの到達目標をきめてそれを習得させることに努力してきました。

アレクサンダーもそのように、何回でここまで、と明示した方が生徒さんにとって親切ではないか、と思ったこともあります。

 今の私の考えは、アレクサンダーの習得は言語の習得過程に似ているけれど、もう少し微妙な気もします。どちらかというと、子育てに近いかもしれません。「母子手帳」に「何ヶ月で何ができる」と書いてあると、新米の母親には目安になっていいのですが、自分の子供がそれに外れているとひどく心配にもなります。また、「はじめて言葉を発した日は?」といった質問項目があり、それに日付を書くようになっていましたが、それはそんなにはっきりと特定できるのでしょうか?母親には「ママ」といったように聞こえても、他人にはわからなかったり、それから何日もそれらしいことを言わなかったり。子供の発達は本当に個人差のあるものです。大多数の子供がその範囲内に入るとしても、そこに入らない子供もいて、それが直ちに障害や問題であるとも限らないのです。もちろん、それによって早期に問題を発見でき適切な処置が受けられるという大きな功績はあるのですが、「これが標準」「こうなるはずだ」「こうならなければならない」という考えにいつの間にかとらわれることにならないでしょうか?

 母子手帳の功績の素晴らしさを認めた上で、あえて私は母子手帳的な親切はやめようと思っています。

 

私の経験から言えることは、1回のレッスンでもゼロよりはいいです。色々な事情でたった1回のレッスンで終わってしまった方に、運良く何年後かにお会いして、何と多くのことを学び、そのことを少しでも実践して下さってきたことか、と感嘆し、うれしく思うことがたびたびあります。その1回の機会を大切にし、意味あるものにされたのは、その生徒さんご自身です。

 

ただ、1回のレッスンではなにものかを「理解する」ことはあっても、「わかる」のは難しいでしょうし、まして体得するのは不可能でしょう。

アレクサンダーテクニークは、長い時間をかけ知らないうちに身につけてしまった、もろもろの不必要な心身のパターンに気づき、自分でやめることを教えることですから、その習慣を形成するのに費やした時間と同じくらいとまではいわないまでも、時間がかかることは事実です。

 不適切な習慣であっても(もしかしたら、「あればこそ」)、それが形成されたにはそれなりの理由があり、それはあなたのこれまでの人生です。それを意識的にかえるには、それなりの時間が必要でしょう。「それなりの時間」、というのは人に教えてもらうものではないように思います。

 

私の先生の先生であるパトリック・マクドナルドは「変わる」ということについて、こんなことを言っています。

 

 人はなかなかかわることができず、同じままでいつづける。なぜなら、それこそが、ほとんどの人にとって望ましいことだからだ。・・・・自分のやり方を変えるということに対する、本能的な恐怖があるからだ。

 

その上で、「6回の簡単なレッスンでアレクサンダーテクニークを習得する」というアレクサンダーテクニークの大衆化をねらった人の仕事を手厳しく批判しています。その人は、アレクサンダーテクニークは本を読めば教師の指導なしでもかなりよく理解できるだろう、とも言っているそうで、それに対し「こんな類のことを言っている人たちは、よほどの大ばか者か不正直、おそらくその両方である。」

 

これは1955年のことですが、現在はその時よりももっと、世の中全体が「早く」「手軽に」ということを重要視する風潮に思えます。

 

私はせめて正直でありたいと思いますので、「短期間で簡単に学べます」とはいえません。

何回レッスンをするか、どこまで到達したいかは、ご本人次第だと思います。

私はその方が自分自身の気づきを深めるために必要なことを探求するガイドとして、できる限り有能でありたいと思っています。でも、山道を歩くのはご本人ですし、歩み続けるかどうかを決めるのもご本人だと思います。

 

 

パトリック・マクドナルド(1910〜91)

10歳のときからアレクサンダーに学び、アレクサンダーが教師養成のコースをはじめるとすぐに参加し、その後、最初の有給のアシスタントになった。現在アレクサンダーテクニークの教師養成、教育法全体の基礎はマクドナルドが築いたといわれている。

私は以前、マージョリー・バーロー先生が、「私達はマクドナルドがいてとても幸運だった。だけど残念なのはかれが一人だけだった、ということだわ」とおっしゃっているのを聞いたことがあります。